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映画史 その一
映画の誕生−エジソンとリュミエール兄弟
1889年のイーストマンコダック社による透明ロールフィルムの発明によって活動写真への道が開け、世界中の技術者、発明家がその開発に取り組む。 トーマス・エジソンといえば言わずとしれた発明王だ。1891年にエジソン研究所が世界初の覗き箱式映画、キネトスコープが開発された。その以前にも同様の仕掛けによる装置が発明されていたが、エジソンは強力な弁護団を結成しその発明の栄誉と特許権を独占しようと試みた。そのためアメリカで映画で作るものは全て、彼の特許会社の許可が必要という状況を作りあげてしまった。こうした状況がアメリカの映画産業の発展を妨げ、アメリカはその初期において盟主の座をヨーロッパに譲ることになる。ちなみにエジソンの強力な独占支配から逃れた映画製作者たちは次第に西海岸に集まり、後のハリウッド隆盛の原型をつくった。
1895年にフランスのリュミエール兄弟がパリにおいてスクリーン映写式の映画、シネマトグラフを開発発表した。リュミエール兄弟は金を払った客に、自分たちの撮ったシネマトグラフを公開するという映画興行を初めて行い、映画の始祖として名を刻むことになる。彼らの映画とはドキュメンタリーのことで、機関車が動く映像など現実をそのまま映し出すのみだった。それでも観客は身近な風景や動くというだけで喜んでいた。ともあれ映画生誕の年を1895年とする説が現在は有力になっている。
その後フランスでは奇術師メリエスによって初のSF映画「月世界旅行」が発表されるなど、ストーリーを持ち、映画ならではのトリックを多用した映画が製作され初期の映画界をリードした。しかし、しばらくすると多くの映画人たちが自らの社会的地位を高めようと、知識人たちの手を借りて芸術的、文学的表現を好み、かえってつまらないものが多くなり大衆の支持を失っていった。
無声映画の成熟
フランス映画が大衆の支持を失い衰退していく一方、アメリカではエジソンの特許会社が独占禁止法違反だと提訴され、映画製作の主導権がハリウッドを中心とする一派に移っていった。アメリカでの映画作りは西部の大自然を利用し、役者に山野を駆け巡らせる西部活劇など、生き生きとした大衆娯楽が中心となる。ヨーロッパの上流階級や知識階級に影響されること無く、ストーリーの楽天性、わかりやすさ、テンポのよさを重視して大衆の支持を獲得していった。そして第一次世界大戦によるヨーロッパ社会の混乱によってアメリカ映画は世界の映画市場を制覇してしまう。
初期のアメリカ映画はその出演俳優によって興行収入が左右されることから、多くのスタジオは人気役者と専属契約を結んでいた。収入は作品ごとではなく週休いくらというように、役者は契約期間内はスタジオの思うままにあつかわれる社員だった。こうしたスターに依存した映画製作はスターシステムと呼ばれ初期のアメリカ映画を支えた。
音響効果の一切無い当時のサイレント映画の特色を生かし人気を博したのが、滑稽な表情や動きだけで笑いをとることのできる喜劇役者たちで、バスター・キートンやチャールズ・チャップリンなど多くの大喜劇役者が生まれた。中でもチャップリンは幼少のころから鍛え上げたパントマイムの名人芸と独特の浮浪者スタイルで世界的人気を得た。やがて自由な映画製作を求めて独立し多くの傑作映画つくることになる。
サイレント映画の時代ではセリフは字幕で表現された。音声がなかった分だけ、言葉では表現できないものをどう表現するのかということに作者たちは没頭した。西部劇での男たちの素朴で土臭いしぐさや、チャップリンの生み出した絶妙な身振りによる雄弁術。さらに映像技術では単純にあるものを映し出すのではなく、とらえ方を工夫したり、現実ではありえない場面のつなぎ方をしたりと多くの試みがされた。そうした中からモンタージュなど画期的な技法が誕生し、映画技術は大きな発展を見せた。1927年のトーキー革命以後、サイレント映画は徐々に姿を消していったが、現在の映画の演技、技法、演出まですべての基礎がつくられたのはこのサイレント時代だ。
映画史 その二
クラシック映画の巨匠たち

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