●教室

江戸時代
もちろん、和式建築。
畳敷き、または板敷きの床、襖、障子で仕切られた和室。生徒も教員も履き物を脱いで校舎に入る。

明治維新後
欧米をモデルとする文部省の基本方針に沿って洋風の教室になる。
旧幕府昌平坂学問所の施設を利用して官立東京師範学校が建てられ、畳をすべて取り払い、板張りの上に米国から注文した 椅子や机が並べられた。
しかし、住民の拠出金によって維持されなければならない小学校の場合は、官立学校とは異なり、一律に洋風校舎を 建設することは財政的に不可能であった。下のグラフからも分かるように寺院や民家を転用したものが 全体の70%以上を占めていた。よって、江戸時代と同様な和式建築のままで授業が行なわれるのが普通だった。

1890年〜
洋式の教室がほぼ全国に普及する。

【原因】
個別ではなく、グループとして同一教材を同時に教授する集団的な授業が行われるようになる。
→黒板の使用が必要
→子供達に見やすいように高い位置に掲げられる。
→教員は立って黒板で説明。
→子供達も座り机ではなく立ち机に椅子の方が適切


back to menu

●昇降口と上履き


上履き
畳敷きから床敷きに変わっても、校舎の中に入ったら「履き物を脱ぐ」という習慣は変わらなかった。
これは、当初の寺院・民家を校舎に転用した際に、当然のこととして在来の建物利用慣行に従ったからであろう。 しかし、下履きと上履きに履き替えるという二足制は小中学校では維持されたが、大学や高等学校では一足制が通常とされた。 それは、外国人教師の指導により、外国と同様な環境での学習を当然とした近代教育発足の原則から、 何の問題もなく導入されたのが慣例かされたものである。 高等学校に関しては、外国人教師への依存度が減少し、かつ生徒達が足駄を常用するようになって騒音防止のために 二足制を採用される場合が多くなった。

昇降口
就学率が高まり、子供の数が増加し、学校の規模が大きくなるのに応じて、履き替えるための場所も次第に広くなった。
教職員や来訪者が利用する「玄関」とは異なった、子供達のための専用空間が出来、履き替えた履き物を収容する
子供達専用の「下駄箱」も設置された。

〜問題点〜

back to menu

●廊下

児童の通学率が90%以上になった1910年以降、小学校校舎は複数の教室から構成されることが常識化してきた。
明治初期は、北ヨーロッパの大規模建築に準じて部屋の配置に便利な「中廊下」が採用された。しかし、高温多湿な日本では、
風通しのよくない中廊下は不適当で、「片廊下」が好ましいとされた。

〜教室の方角に関する論争〜
採光や通風を考慮すると、地域性はあるものの、教室は東西方向に、よって片廊下は北・南側を貫通することになる。

九州南部・四国・瀬戸内
南面する教室の南側に廊下を設置。
→夏から秋にかけて台風のが大きく、強い南風を受けて雨量が多いため。

関東・東北地方
廊下を北側に設け、教室を南側に直面させる。
→冬の暖房効果を重視

1900年 小学校施行規則中の設備準則
『廊下ハ片廊下ヲ常例』とする、と定めたが位置については言及なし。
1901年 初代学校衛生主事 三島通良
『南廊下説』を科学的に否定した報告を『官報』に発表。

南面教室
・長所
寒気の強い地域では暖房補助効果がある。
廊下に日が射さないので、廊下が「お仕置き」「さらし者」の「刑場」と化す。
・短所
秋から春にかけて強烈な日光が直射する。

北面教室
・長所
秋から春にかけて南廊下が陽だまりとなるので、民家の縁側のように、休み時間に談笑の場となる。

→日本は地域による気候・風土の差が大きいので廊下・教室の位置を画一化するのは問題があった。
back to menu

●普通教室と特別教室

当初の小学校は黒板が正面に、それに対面して立ち机と椅子が配列されている「普通教室」だけから成っていた。 よって教科書中心に講義調の授業が展開されるだけだった。 教育内容が多様化し、普通教室では展開しがたい授業が現れる至り、その教科授業用の特別の施設を施した教室「特別教室」が 発生した。

back to menu

●体操場・運動場の成り立ち


遊歩場の設置
当初の小学校では、校舎を中心としてその周囲に若干の土地が付随している程度であった。当初は「遊歩場」と呼ばれ、後に 「学校園」へと変化する空間である。当時は「体操」は「唱歌」とともに、日本にとっては、初めての教科だったので 指導しうる教員の養成も整わず必修科目とは成りえなかったから、体操場の設置は必要ではなかったのである。

「体操」の必修化と体操場の設置
日清戦争の経験から日本人の健康の貧弱さと保健衛生の知識の不足とが問題視され、学校保険の関心が高まった。
1900年
第三次小学校令  初めて「体操」が必修科目となる。
1905年
体操場が五年間の準備期間を置いて必設される事になる。      
しかし、土地の入手難や学校全体の移転の伴って、実現するのは1910〜1920頃となる。

体操場は「体操」の授業のための空間であったから「屋外体操場」と名付けられた。ところが、クラブ活動として 野球・テニス・バレーボールなどのスポーツが導入されるようになって「運動場」と呼ばれるようになった。

back to menu

●制服の歴史  男子


明治維新直後  
従来通り、公家は狩衣・直垂、武士は麻上下
          〜外国人教師雇い入れ、教室に椅子や高机を導入〜
1871年 
大学教員野生との間から洋服着用の願いが提出される。太政官拒否。
同年4月  
理科・技術教育関係の南校の化学局と物産局に限り、実験の便宜上洋服の着用が認められる。
同年8月  
儀式の場合を除いて「脱刀」が認められた。
同年下旬  
儀式以外での洋服着用が公認された。
1886年 
学費支給要綱
1888年 
尋常師範学校設備準則         
(給与される制服の種類や数量を規定。これにより全国的に制服着用が普及定着した。)
    

学ランは何時から?
黒または、濃紺のサージ地の詰襟・金ボタン上着に同色のズボンの男子学生服は、今もなお制服として用いられている。 1880年代後半に当時の陸軍下士官の戦闘服にそっくり模して、中等教育以上の学校制服に採用されたものが、 ほとんどそっくりそのままに継承されてきたものである。
  また、制服着用はエリート候補者をシンボライズする服装となった。中等教育学校以上への進学者が限られていた戦前期を通じて、 それは帝国大学学生の制服を典型とするように、将来社会の中間層以上への進路を約束されたようなものであった。

back to menu

●4月入学、3月卒業導入


近代学校になって、学校固有の社会慣行とは異なる「学年」が導入された。 1871年の時点では、入学期を正月と9月の年二回に分けていた。 1875年の改暦後、9月11日に始まり、7月10日に終わる「学年制」が日本に採用された。 これは、外国人教師の学校生活慣行を忠実に受け入れたためだと考えられる。

一方、小学校では学年制が採用されず、半年単位の等級制で、その始期・終期は春と秋とが多かった。 そして、1880年代後半の学校制度整備が始まり、高等教育学校での9月学年制とは異なる 4月学年始期・翌年3月終期制を1887年4月から実施させた。

    【4月学年制の理由】
  1. 9月学年制では、7月に学年修了試験を施行するため、炎熱のために生徒の健康を害する恐れが多い。
  2. 1886年以降の会計年度が4月始期制となっているので、それに合わせた方が会計処理上便利である。
  3. 1887年に徴兵令が改正され、徴兵検査の年齢査定基準が従来の9月現在から4月現在に変更されたために   学校の必要とする人材が先に軍に指名されてしまう事態の生ずる可能性があり、生徒募集上に障害がある。

ここで、一つの問題が持ち上がった。それが「夏休み」の問題だ。 なぜ、夏休みがあるのだろうか?

back to menu

●夏休み

江戸時代までは、夏休みの慣行は学校にはなかった。
中緯度温帯地域の日本では亜熱帯性植物である稲を栽培するためには、稲の生育にもっとも適した夏の湿潤・炎暑の時期に十分に世話をしなければ、 秋の収穫は期待できない。そこで、農民は、夏の暑い時期にこそ最大の努力を払うのであって、暑中休暇という 発想は生まれ得なかった。武士も、町人も同様な生活ルールを保持していたから、藩校や手習塾にあっても、 暑いから休暇をとるという慣行は成立していなかった。

だから、「夏休み」という発想も外国から輸入されたものと考えてよいだろう。 夏の間だけ日光が出て、春小麦の収穫を終えたばかりのこの時期に、日光浴とリクエーションを満喫する必要に迫られた アルプス以北のヨーロッパ地方に生まれた生活風習であったと考えられる。

なぜ「夏休み」が問題なのか?

4月学年制が実施されると、夏休みは一年の学校暦の前半に学習の空白期をもたらす。 低年齢の児童の場合、その空白期により学校生活への記憶を失ってしまい、夏休み終了後のしばらくの間 再び学校生活に慣れさせる指導をしなければならなくなった。だから、休暇中に授業は休止するものの 代わって子供たちに自己学習を課すか、あるいは休暇中に登校日を設けて、学校への記憶を想起させる必要があった。 これが、いわゆる夏休みの宿題の発生である。
しかし、休みでありながら学習の継続が子供たちに求められるというのは、原理的な矛盾に他ならない。 子供たちは休みを楽しむために日常的な学習の継続よりも、宿題を「まとめて始末をつける」方法をとる、 一方、教師の側はそれと知りながら学習の継続を求めるという、この両者間の要求の矛盾は、4月学年制が続く限り 日本の学校に残らざるを得ないだろう。

back to menu

●「遅生まれ」と「早生まれ」

4月1日を分水嶺として、それ以前1月1日から4月1日を誕生日とする子供は、満6歳の誕生日を迎えた年に入学し、 4月2日から12月31日に誕生日を持つ子どもは、満6歳の誕生日を迎えた年の翌年に入学することになる。 前者が「早生まれ」、後者が「遅生まれ」と呼ばれている。

このように、わずか1日の差で、小学校入学にほぼ1年の違いができてくる。小学校入学時の子供たちにとっては、 この1年の差が身体的・精神的にかなりの格差となることが、昔から指摘されていた。 1909年小学校令施行規則の学年規定を改正し、9月入学制を一部復活させて子供たちの小学校入学時での精神的・ 身体的格差を半年分に縮めることが試みられたが、失敗に終わった。
しかし、戦前においてこのような制度措置のとられたことは、学校制度の規制緩和と弾力運用が主張されている今日、 想起されてよい、史実だといえるだろう。

back to menu

●感想

学校の歴史というと、制度の歴史を見ていくものが多かったが、 今回のレポートでは、学校の歴史を空間的・時間的側面から見てきた。 学校の制度は、明治維新からどんどん改革されてきたが、学校の形態そのものは差ほどの変化を遂げていない。 確かに、学校の時間的な伝統は、日本の文化の一部にもなってきている。 夏休みの宿題を31日にまとめてやることも、朝のラジオ体操も また、桜の木の下で入学式の記念写真を撮ることもみな、古くからある家庭の光景だろう。

しかし、子供たちに直接関わってくるのは、学校の制度よりも学校の形体である。 本当に子供たちにとってよいことは一体何のか、見極める必要がある。古い習慣に いつまでも固執していることは必ずしも子供のためにはなっていない。 1クラス30人の授業形体、成績のつけ方、受験制度、などをどんどん見直していかなければならないだろう。

back to menu


青山学院大学国際政治経済学部 田辺ゼミ
ツツミ ヨシエ
jewelry@sonata.plala.or.jp