-日本マクドナルド-

1950年、学生時代に立ち上げた「藤田商店」は、高級ブランド輸入販売でそれなりの成功をおさめていたものの、まだまだ小さな貿易会社だった。そんな藤田のもとに1967年頃、ある情報が舞い込んで来る。アメリカのハンバーガーの最大手、マクドナルドコーポレーションが日本市場への進出を考えており、そのために日本でのパートナーを探していたのである。
日本人でハンバーガーを知っている人はほとんどいない時代。だからこそ、このマクドナルドを日本に上陸させれば大きなビジネスにつながると、藤田は確信する。そして、藤田商店はすぐに米国マクドナルド・コーポレーションとの交渉を開始したのだが、すでに日本の大手貿易商社や食品メーカーなどが接触し、交渉を繰り返している状況であった。当時無名であった藤田商店にとって、それは全く勝ち目のない戦いに思えるのは当然のことであっただろう。それでも情熱だけは誰にも負けないという思いと、持ち前の国際的な感覚と堪能な語学力を武器に、藤田は単身、米国マクドナルド・コーポレーションへと乗り込むという行動にでたのである。マクドナルド・コーポレーション社長レイ・クロックは、片手間にこの仕事を考える大企業より、専業で力いっぱい努力してくれるパートナーを望んでいた。問題が生じたときにすばやい対応のできる、つまり意志決定のできる人間がつねにビジネスの第一線にいる、そんなパートナーを切望したのだ。
20分ほどの雑談の最中、クロックはカートンボックスの中をさし「みんな(マクドナルド・ビジネスを日本でやらせてほしいと望む)日本人の名だが、私はあまり気乗りしない。あんたやらないか」と言ったといわれる。藤田はクロックと話があったことで、大きなビジネスチャンスを手に入れたのである。この会談は銀座1号店オープンの1年前のことであった。

日本1号店はどこに出店すべきか、このことは日本においての「マクドナルド」というものの将来、存在価値を決める上で非常に重要な問題であったに違いない。「立地は、クルマで行ける都市郊外が最適」というアメリカの出店方式にのっとり、日本でも神奈川県茅ヶ崎市を候補地として計画が進んでいた。しかし藤田は「日本では文化は一か所に集中する。それだけに1号店は話題性を持って迎えられる地でなくてはならない。日本の中心は東京、さらにその中心は銀座だ」と。さらに藤田は、「銀座ならどこでも良いというわけではない。4丁目の表通りに面した場所しかない」と強く主張した。当時の銀座は最新の輸入品が登場する場所であり、また外人観光客も多数訪れる、まさに日本を代表する街であったのである。一方1970年8月から日曜・祝日の銀座通りは日本で初めて歩行者天国となり、若者の街へと変わる時期でもあった。そして、銀座に1つの候補地があげられた。
アメリカ流立地「アップタウン型(郊外型)」を否定し、日本流立地「ダウンタウン型(繁華街型)」でスタートするのは、本部からしてみたら心配であったのかもしれない。しかし、藤田は確信をもってこの場所に1号店を出店する事に決めた。この行動は世界の流れを変えたと言われる。
1971年7月20日火曜日、東京・銀座4丁目。ついに日本第1号店「銀座店」がオープンした。外国人にはもちろんのこと、日本人にも大人気で迎えられ、マスコミにも大きな反響を呼ぶ。日曜日には歩行者天国の効果もあり、1日に1万人のお客がつめかけ、1個80円のハンバーガーは飛ぶように売れた。同年の7月24日には、初めて客席をそなえた「代々木店」が、続いて「大井店」がオープンした。  

70年代の日本で、最も急速に発展したのが自動車産業であった。「マイカー時代」の到来である。この時期、日本人の生活は確実に変わろうとしていた。そして1977年、「自動車に乗ったままハンバーガーが買える」という日本人の誰も想像しなかったドライブスルー方式が、マクドナルドによって初めて日本にもたらされたのである。